茶の湯の世界

日本における茶の湯は、鎌倉時代に日本臨済宗の開祖である栄西(えいさい)が臨済禅(りんざいぜん)とともに抹茶法を伝えたことに始まったとされています。
茶を嗜む習慣と茶の製法は平安時代に遣唐使によってもたらされました。そして次第に公家や武家の高貴な人々の生活に浸透し愛好されるようになっていきました。

広間の茶室の例 室町時代になると、中国製の茶器が唐物と呼ばれて重宝され、それを使った盛大な茶会が開かれるようになります。六代将軍足利義政の茶の師匠である村田珠光が、主人と客との精神の交流を大切にする茶会のあり方を説きました。
これが後に千利休が大勢させる、「侘び茶」の精神の始まりと言われています。
茶室 そして安土桃山時代になると日常の中から自分の好みに合った道具見出し茶を嗜む、新しい茶の湯の概念となる「侘び茶」を大成させました。
戦国時代には武将たちがこぞって茶の湯に没頭し、貴重な茶道具を持つことがステイタスシンボルとなっていました。こうして茶の湯は、天下人から大名、民衆へと広く普及していったのです。

茶人

千利休 千利休(せんのりきゅう)は戦国時代から安土桃山時代にかけての代表的な茶人です。村田珠光の茶の湯の精神を受け継ぎ、侘び茶の完成者として知られ、大成者として「茶聖」とも称されています。また、今井宗久・津田宗及とともに茶湯の「天下三宗匠」と称され、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を持ちました。
天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力を与えた人物。
茶室は無駄を省いた造りと空間、茶碗は樂焼の表面に現れる混沌とした黒と、華美を求めずシンプルな造形、露地は渡り六分、景四分とするのが利休流です。
吉田織部 戦国時代から江戸時代初期にかけて織田信長、豊臣秀吉に仕えた武将。一般的には茶人・古田織部として知られているが本当は「古田重然(ふるたしげなり)」という名です。
「織部」の名は、壮年期に従五位下織部正の官位に叙任されたことに由来しています。千利休が大成させた茶道を継承しつつ大胆かつ自由な創造性を好み、茶器製作、庭園作庭などに渡って「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらしました。
茶室は変化に富んだ開放感のある空間、茶碗は名を取った織部の緑と「へうげもの」と評される歪んだ造形、露地は「渡り四分、景六分」とするのが織部流です。
小堀遠州 小堀遠州は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家と数多くの肩書を持つ才人です。
「遠州」とは武家官位の遠江守の唐名に由来する通称で後年の名乗りで、本当の名は「小堀政一(こぼりまさかず)」です。
師である織部の後を継いで将軍家の茶道指南役を担った一方、幕府の脳吏として一生を全うしました。遠州の茶の湯は「綺麗さび」と表現されます。和歌や藤原定家の書を学び、王朝文化の美意識を茶の湯に採り入れました。
遠州の茶室は入念に計算しつくされた構成美のある空間が特徴です。茶碗は洗練された装飾性をもつ均整のとれた造形。遠州流の露地は、高い機能性と景観を融合させ完成させました。

織部焼

美濃焼の中でも特に特徴的な織部焼

美濃焼(みのやき)は日本を代表する陶磁器。美濃焼が生産される岐阜県東濃地域は、日本最大の陶磁器生産拠点で、日本の陶磁器生産量の約半分を占めています。美濃焼の種類は多岐に渡り、伝統的工芸品に指定されているものは十五種類にものぼります。
特に代表的なのが、「瀬戸黒」「黄瀬戸」「志野」「織部」の四種類。なかでも特徴的な織部焼を紹介しましょう。

斬新な形や文様が織部焼の特徴

織部とは、桃山時代から江戸にまたがる慶長年間(1596~1615)から寛永時代(1624~44)に、美濃で焼かれた加飾陶器です。桃山時代の美濃の焼物の中でも、ひときわ異彩を放つのが「織部焼」。
轆轤(ろくろ)で立ち上げた円形をあえて楕円に歪ませた沓(くつ)茶碗など、それまでの焼物にはない斬新で奇抜な造形をつくりだし、文様を施すのが織部焼の特徴です。
そして茶の湯の器として、懐石の器として、時代の求めに応じながら、織部焼は多様に展開してきました。

織部焼の種類

宗織部 宗織部
銅緑の織部釉を器の全体にかけられたもので、そのため無文様のもの、あるいは釉下に線彫りで文様を加飾として透かし彫り、印花、貼り付けなど工夫されています。
器種としては皿類や鉢類が多く見られる。特に文様が描けない反面、器形に創意を凝らしています。
鳴海織部 鳴海織部
様々な種類がる織部の中でも、最も手が込んでいるのが鳴海織部です。 鉄分のある赤い土と白い土を継ぎあわせて、赤い土の部分には白化粧で文様を描き、鬼板で線描し、白い土の部分に銅緑釉をかけて、緑の発色を際立たせています。

「織部好み」は安土桃山時代に大流行

織部の師、千利休は常に「日頃見慣れたものにも美を見出せ」という教えを説きました。装飾がなく端正な器は「利休好み」と呼ばれています。
一方、その教えを受け継いだ古田織部は一般的には歪みに見える変化に富んだ躍動感のある造形に美を発見します。器はもちろん、建築、庭園などにもそうした美を見出しました。この織部の斬新なデザインは安土桃山時代に大流行しました。
織部が生み出したとされる非対称であったり歪んでいたりする個性的な器は、「織部好み」と呼ばれます。織部好みの象徴が織部焼なのです。

戦国時代

戦国時代の到来

日本の戦国時代は、日本の歴史において十五世紀末から十六世紀末にかけて戦乱が頻発した時代です。乱世により室町幕府の権力は完全に失墜し、守護大名に代わって全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が現われるようになります。領国内の土地や人を支配しようとする傾向が強まると共に、領土拡大のため他の大名と争うようになっていきます。
茶の湯という文化は安土桃山時代、政治と直結し、政治を動かせるほどの重要な役割と価値を持っていました。その立役者が千利休であり力添えをしたのが豊臣秀吉ですが、最初に政治に茶の湯を組み込んだ考案者は織田信長なのです。

戦国大名 乱世の戦国時代、既成の価値観を怖し天下統一を目指した織田信長は「茶の湯」がもつ経済効果に目をつけます。「名物」と呼ばれる茶道具が国ひとつに匹敵するほどの価値があることに着目した信長は、「名物狩り」として京都や堺の名物道具を莫大な金額で買い上げ、手柄を立てた武将に領地を与える代わりに買い集めた茶道具を家臣に恩賞として与えました。
信長は「茶の湯」を積極的に政治に取り込み、世の中を統治するための手段として利用する、いわゆる「茶の湯御政道」をつくりあげます。後の豊臣秀吉は信長の亡き後、天下統一を果たし利休を筆頭茶頭として抜擢させたあと「茶の湯御政道」を推し進めていきました

真田紐

真田紐(さなだひも)とは縦糸と横糸を使い機(はた)で織った平たく狭い織物の紐で、主に茶道具の桐箱の紐・刀の下げ緒などに使われていました。
戦国時代中期、各家の好みの紐柄ができ、これを遺品回収の折の目印にました。茶道具では約束紐と呼ばれる各流儀・各作家・各機関でのみ使うことができる独特の柄を制定する文化の基となったといわれています。また、真田紐は千利休の発案で桐箱にも使用されるようになりました。
真田紐