私たちは、外から見える誰かの窓の明かりにホッとしたりする。私たちは、外から見えるインテリアに「どんな人が住んでいるのかな」と勝手に想像する。ガラス越しにでも、その人となりがわかれば、好きな音楽やモノなど趣味的なものを通して、自然とコミュニティができると考えた。
緩衝帯みたいな余白のようなものがあれば、それがきっかけとなりコミュニティができる。その余白は、自分と他人との間に生まれる心地いい距離感となっている。建築でいえば、内部と外部との余白、”縁側”のような空間である。縁側がいつも人を引き付けるのは、そのゆるやかに繋がる部分に心地よさを感じ、その魅力を十分に感じているからなのだろう。
そのような余白は、人の心を操作する心理的結界となるのではないだろうか。
だが、今はモノがあふれ、生活が豊かになった。そして、もう昔のような「生活=コミュニティ」の図式は成り立たなくなってきた。となると、機能しなくなった図式のまま、建築だけが取り残されズレが生じる。そして、そのズレはコミュニティとプライバシーとのバランスを崩す。マンションなどの集合住宅に住んでいても、隣の人と顔を合わすことがあまりない。もし顔を合わせても挨拶をする程度…。
プライバシー重視の建物の中では、どんな人が住んでいるのかわからない。”生活=コミュニティ”でなくなった今、きっかけもない状態で、どう関わればいいのか、とまどってしまう。
仮に敷地の中に広場的なものがつくられたとしても、どんな人なのかもわからないまま、そこでのコミュニティを、強制させられているように感じてしまう。あてがわれた空間は空虚で悲しい。